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Jesus Message


Jesusメッセージをあなたに
by kinojin
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2005年7月10日礼拝

「古くて新しい」  ヨハネの手紙第一 2章7節~11節     

ポイント1:愛する者たち
2章7節 は「愛する者たち」という言葉で始まっています。 これは言い換えれば、「愛されている者たち」という事です。 それでは誰から愛されていたのでしょうか? 
第一には天のお父様から愛されていました。 第二にはこの手紙を書いているヨハネ達から愛されていました。 
ではこの人々はどうして愛されるようになったのでしょうか? こう呼ばれる為の条件は何でしょうか? 
ヨハネの手紙第一4章10節には「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。」とあります。 
天のお父様がまず、神に造られたものである故に愛してくださったのです。 そしてそのような愛で愛されている事を体験したヨハネ達が、同じように愛されているこの手紙を受け取った人たちを愛するようになったという事です。 
ヨハネの手紙第一4章11節では「愛する者たち。 神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」とあります。
私たちが愛するのは、「神がこれほどまでに愛してくださっているから」という事がいつも土台である事が大切です。

ポイント2:光と闇
2章9節から11節を読むと、愛することと光の中を歩む事、憎むことと闇の中を歩む事がそれぞれ同じ意味として使われています。 それはどうしてなのでしょうか?
ヨハネの手紙第一4章20-21節には「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。 目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」とあります。
目に見えない神を愛していることを、目に見えるクリスチャン(兄弟)を愛することで示すことが出来ると言うのです。 
天のお父さんに愛されている事を体験していくと天のお父さんを愛する思いが出てきます。 
そしてその思いはクリスチャンを愛する思いへとも成長していきます。 
また神を愛する者が光である神様と共に歩む事を願うように、神を愛する事を願わない者は光である神様と共に歩む事を避け、結果として闇の中を歩むようになっていくのです。

適用1:私たちの人間関係の中で神の愛を必要としている部分はどこでしょうか?

# by kinojin | 2005-07-10 17:56 | Ⅰヨハネの手紙

2005年7月3日礼拝

「神の国の算数」  列王記第一 17章7節~16節    

:私たちはこの世の中の問題を考える時に、自分には何も出来ないと思い易いのではないでしょうか? 
しかし、天のお父さんは違った見方をしている事を学びましょう。

ポイント1:やもめとその息子
列王記第一17章7節~16節までを読んで皆さんはどんな事が教えられるでしょうか? 
ここで用いられている人は、貧しい一人の女性です。 天のお父さんは人を頼らずにエリヤを養う事も出来たでしょう。 しかしここでは、この女性を用いられました。 
私たちは神様に用いられるには、資格が必要だと考え易いと思います。 ある人は、地位や名誉、学歴が必要だと言うかもしれません。 
しかし、この女性はそのようなものは何一つ持っていませんでした。 この女性がした事は、エリヤを通して言われた神様の言葉に従っただけです。 

ポイント2:5つのパンと2匹の魚
新約聖書のヨハネの福音書6章1節~14節を見ると、男だけで5000人の人々(女性や子どもを含めると1万人から1万5千人くらい)が空腹でした。 
そこにあった食料は5つのパンと2匹の魚でした。 それは焼け石に水のようなものです。 
しかし、このわずかな物をイエス様の言われる通りに差し出すと、イエス様はそれを祝福し、全員が食べて満腹し、尚あまりが出る程に増やされました。
これは二つの出来事に共通している事は、神様の言われる通りに持っているわずかな物を差し出すと神様がそれを祝福して大きな事をしてくださるという事です。 
しかし、マタイの福音書25章14節~30節のタラントのたとえを見ると、与えられた物を用いないと与えられていたものまでもなくなってしまう事が分かります。 
与えられている物を喜んで用いるものとさせてもらいましょう。

適用1:問題が大きすぎて、自分には何も出来ないとあきらめている事はないでしょうか?

# by kinojin | 2005-07-03 20:34 | Ⅰ列王記

2005年6月26日礼拝

「キリストの生き方」   Ⅰヨハネの手紙2章1節~6節
ポイント1:罪を犯さない
2章1節には「私の子どもたち。 私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」とあります。 
この「罪を犯さないようになる」とはどういうことでしょう? 
クリスチャンになると罪を犯さないようになれるのでしょうか? 
1章8節や10節を読むと、クリスチャンも罪を犯す事があることが分かります。 
しかし、罪を犯す事はしかたのない事だと思う必要はないのです。
3章5節を読むと「キリストが現れたのは罪を取り除くためであった~」とあります。 
そして罪が取り除かれていく秘訣は3章6節にある「キリストのうちにとどまる」という事である事が分かります。

また2章1節後半を読むと、私たちが罪を犯した場合にしてくださる事が次のように書かれています。
「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。 義なるイエス・キリストです。」 
キリストは罪を犯した私たちを責めたり、非難するのではなく、弁護してくださるというのです。
この「弁護する方」とは、ヨハネの福音書14章16節に出てくる「助け主」です。 
この「助け主」は、援助のために私たちの傍らに来てくださる方です。 
更に2章2節を読むと、弁護してくださるだけでなく、私たちの身代わりになってくださったとまで言われています。 
これらの事が私たちが罪を犯さないようにだんだんと変えられていく、力になるのです。

ポイント2:神の命令
2章3節~5節の間に「命令」とか「みことば」を守るという言葉が出てきます。 
皆さんは神の命令を守るという言葉を読んだ時にどのような事を思うでしょうか? 
神の命令とは何を指すのでしょうか? 
聖書の中には沢山の命令が書かれています。 
その全てを守るようにという事でしょうか? 
もしそのように考えると、自分は全ての命令を覚えていないのでダメだと考えてしまうのではないでしょうか。 
しかし3章23節を読むと「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」とあり、神の命令とは互いに愛し合うことだという事が分かります(参照:マタイ22章36節~40節)。

2章3節を現代訳では「もし私たちがキリストの戒めを行うなら、キリストをさらによく知ることができる。 」と訳しています。 
何故互いに愛し合うことにより、神をさらに知る事が出来るのでしょうか? 
それは「神は愛」だからです。 
また2章6節には、「キリストが歩まれたように歩まなければなりません。」とありますが、キリストが歩まれた歩みとは何でしょうか? 
それは人々の必要を見出し、愛し仕える生き方であったとまとめる事が出来るしょう。

適用1:自分はキリストのよう(罪を犯さない、互いに愛し合う)には歩めないというサタンの嘘に騙されてはいないでしょうか?
2:新しい発見、示された罪、実践するように教えられたことは何かありますか?

# by kinojin | 2005-06-26 21:29 | Ⅰヨハネの手紙

「聖霊が来られると」  ヨハネ16章7節~15節

ポイント1:動機は愛
十字架にかかられる前日、イエス様は弟子達に話しておきたいことが沢山あったことでしょう。 しかしイエス様が語られたことは、第一に弟子達がつまずくことがない為という愛の動機からの言葉でした(ヨハネ16章1節)。 第二には、弟子達の聞く力に応じて話されたということです(12節)。 この時に弟子達の心は恐れや不安、悲しみ(6節)で一杯でした。 
*私たちも何を語ったらいいのか迷う時があります。 そのような時にどうしたらいいでしょうか? その秘訣は16章13節にあるように、天のお父様から聞いた事を話すということです。

ポイント2:益のため
聖霊様が来られることによってもたらされる二つの益となることがここに書かれています。 一つ目はキリスト者でない人々に対して誤りを認めさせる事です(8節)。 罪とはキリストを拒否するということ(9節)。 義とは復活を通してイエス様が義なる方であることが明らかにされたということ(10節)。 さばきとはサタンが十字架と復活を通して裁かれたということ(11節)。 これらの事を示される働きをするということです。 二つ目はキリスト者に対して「真理」であるキリストとそのなされた救いの業を明らかにされるということです(13節)。
*聖書を読む時に、理解が与えられるように聖霊なる神様に聞きながら読むようにしましょう。

■適用1:生活の中で聖霊様に聞き、教えられるということを体験しているでしょうか?

# by kinojin | 2004-05-30 20:52 | ヨハネ

「聖霊の力で生かされる」  ヨハネ15章18節~27節

ポイント1:苦しみを覚悟する
「パッション」の映画の中で、イエス様はご自分が十字架にかかられる前の日に、弟子達に向かって「あなたたちはやがて迫害を受ける」と警告されました(ヨハネ15:20)。その場面を見て自分の信仰はどうだろうか? このような信仰を伝えているだろうか? と思いました。
聖書を読むと、主を信じる者が祝福を受けるという事が書かれています。 と同時に迫害や困難、苦しみに会う事も書かれています(ヨハネ16:33、17:15)。 迫害や困難、苦しみは私たちの信仰を成長させる機会でもあります。 そのような自分の力でどうにもならない環境に置かれた時に、自分の力で生きることを止め、神様の力で生きるように変えられます。 神様が望んでいることもそのことであると思います。

ポイント2:備えの力
迫害や困難、苦しみに会った時に私たちの支えとなることの1つは、キリストの苦難を思うことです(ヨハネ15:18)。 このような苦しみに会っているのは、自分だけではないと知ること。 またイエス様がすでに体験し、私の苦しみ、悲しみ、痛みを癒してくださる方であることを思い巡らす事が出来ます(イザヤ書53:4)。
2つめのことは、ヨハネ15:26でも語られている「助け主聖霊様」にまったく満たされることです。 その時に私たちは神の力で満たされ、恐れから自由にされ、大胆にイエスさまの事を証していくことが出来るように変えられます。 そのような姿を使徒の働きを読むときに私たちは見る事が出来ます。

■適用1:自分の抱えている問題を主の前に持ち出して祈ることが出来ているでしょうか。


# by kinojin | 2004-05-23 20:55 | ヨハネ